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地震によって引き起こされた原発事故がきっかけとなってこれからのエネルギーをどうするかという議論が日本のみならず全世界で活発になっています。
「二酸化炭素を排出しない」とか「安い」とか原子力発電を推進するためにさまざまなアドヴァンテージがあるように言われてきましたが、今回の事故によって我が国のような地震国において原発の安全は実は「砂上の楼閣」や「まやかし」であったと証明されてしまったからです。

そんな今、秋に公開する予定だった『100,000年後の安全』というドキュメンタリー映画が緊急公開されました。

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「もしあの時、違う道を選んでいたなら…」

人生においてひとは誰しもそう思うことがあるようです。

進学をどうするかに始まって、一生の職業を何にするか、そしてパートナーを誰にするか…人生におけるこうした大きな選択はそのひとのその後を大きく左右するでしょう。

でも私はよく若いひとたちに大きな選択の前の小さな選択が実は重要なのだと言います。
日々のNEWSをどのチャンネルで見るか、限られた余剰のお小遣いを何に使うのか、毎月買う雑誌を何にするのか、外食する時にどんな店を選ぶか、はたまた何を着るか…。
日常の中で得られる知識や情報の集積、どこで誰とどのように出会うかということが如何ににそのひとの形成に影響を及ぼし、どこへ向かわせるかに極めて重要な要素だと思うからです。
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このブログを読んでくださっている方の中に今回の地震で被害に遭われた方はいらっしゃるでしょうか。

空から絨毯爆撃を受けたあとのような否、それ以上の悲惨でしかも広範囲の被災地を映像で見て打ちのめされ、そしてその後も続いている余震(地震とあらゆる情報)に身体と心を揺さぶられ続けました。
しばらくは何も手につかず、宙ぶらりんの日々を送ってしまいました。

今回ほど自分が無力であることを思い知り、またある種の無常感に囚われて一歩も前へ踏み出せなくなったことはありません。
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『レイチェル・カーソンの感性の森』http://www.uplink.co.jp/kansei/という映画を見てきました。
レイチェル・カーソン(1907-1964)はノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアが「彼女がいなければ、環境運動は始まることがなかったかもしれない」と賞賛したことによって再び注目を集めた、『沈黙の春』(1962)を書いて化学物質の環境へ与える影響についての問題意識を人々に呼び起こした女性です。
この作品はカイウラニ・リーという女優がレイチェル・カーソンの著作や活動に感銘を受け、一人芝居の脚本として仕上げ、18年間演じてきたものをインタビューに答えながら海辺の別荘での暮らしぶりをインサートする、ドキュメンタリー形式で映画化したものです。
毎度のことながら受付で渡された資料をほとんど読まないで映画に向かうので、私はてっきりこれがドキュメンタリー映画だと思って途中まで見ていました。そして、はたと気づいたのです。レイチェル・カーソンはうんと昔の、白黒しかない時代のひとだった—つまりこれはドキュメンタリーではないと。
クリストファー・マンガー監督は妻に勧められて見た舞台に感動したものの、当初映画化は難しいと随分逡巡しながらカイウラニ・リーと話していくうちにドキュメンタリーのスタイルでというアイディアに辿りつき、製作に着手したそうです。
海のそばの別荘と家、実際レイチェル・カーソンが生活した場所でたった五日間の撮影の前に監督とカイウラニ・リーとの間で演技についての随分綿密なやり取りがあったようです。なぜなら舞台での演技とドキュメンタリーらしく撮るための演技はまったく異質のもののはずだからです。
18年もの長い間レイチェル・カーソンを演じてきたカイウラニ・リーのいわゆる役作りは完璧だったでしょうけれど、舞台で観客を惹きつけるための動きやセリフ回しなどをそのまま映像に持ち込むとオーバーでぶち壊しになりますから、たぶん現地入りする前に何度もリハを行ったのだと思います。
結果としてこの映画は成功しています。
一旦これは再現したものでドキュメンタリーではないとわかったあとも、そのことを忘れてしまう瞬間が幾度となくありました。そして家族と縁の薄いレイチェル・カーソンが死を目前にしてたったひとりこの世に残さなくてはならない唯一の血縁である息子(亡くなった姪の忘れ形見を養子にした)のことを思い、またやり残したことや生への断ち切り難い執着で胸が塞がり哀切極まる姿にもう現実と虚構の境目は消えてしまいました。
カイウラニ・リーはレイチェル・カーソンが憑依しているかの如く、映像の中で彼女の生を生きていました。
現実と虚構の境目を超えるということ—このことは映画の本質を表しているといえます。映画の始まりのとき、リュミエール兄弟の蒸気機関車の映像を見て観客は思わず逃げそうになったといいます。観客が映画に求めるもののひとつにリアリティがあります。そもそも映画はドキュメンタリーから出発したのですから。
ポスプロによって作られた虚構のリアリティが広がる中、この映画は俳優の身体、そしてそれを真っ直ぐに捉えたカメラによってその原点に回帰したすばらしい作品だといえるでしょう。
カイウラニ・リーが長年続けてきた舞台の題名は『センス・オブ・ワンダー』、レイチェル・カーソンの著作の題名でもあります。
みなさんも感性と想像力の翼を拡げていま一度映画の原点に向き合ってみてください。

『レイチェル・カーソンの感性の森』 という映画を見てきました。

レイチェル・カーソン(1907-1964)はノーベル平和賞を受賞したアル・ゴアが「彼女がいなければ、環境運動は始まることがなかったかもしれない」と賞賛したことによって再び注目を集めた、『沈黙の春』(1962)を書いて化学物質の環境へ与える影響についての問題意識を人々に呼び起こした女性です。

この作品はカイウラニ・リーという女優がレイチェル・カーソンの著作や活動に感銘を受け、一人芝居の脚本として仕上げ、18年間演じてきたものをインタビューに答えながら海辺の別荘での暮らしぶりをインサートする、ドキュメンタリー形式で映画化したものです。

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3月公開の『台湾の朝、僕は恋をする』http://aurevoirtaipei.jp/という映画を見てきました。
この映画はエドワード・ヤン監督の弟子とされるアメリカ育ちの台湾人、アーヴィン・チェン監督の長編第一作です。
そして大好きな『ベルリン天使の詩』(1987)の監督、ヴィム・ヴェンダースが自ら「ドイツからの守護天使」と手を挙げて(やさしい彼らしい)製作総指揮を努めたそうです。
エドワード・ヤン監督の作品はいつも楽しみにしていたのに『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)以来、作品が発表されないまま2007年に癌で亡くなったと聞いたときにはほんとうにショックを受けました。その闘病中に傍にいて未完となったアニメーション作品『追風』の脚本の執筆を手伝っていたのがこのアーヴィン・チェン監督だそうです。
とても期待して試写室に向かいました。
入り口で受け取った資料は鮮やかな水色にショッキングピンクで”Au revoir Taipei”と書かれてあって裏には小さなエッフェル塔。何だか可愛いな…と惹かれました。でもいつものようにぱらぱら眺めただけで、予備知識なしで映画に向かいました。
台北の下町が舞台。
恋人がパリに行ってしまって、そのあとを追いたいカイという男の子が主人公です。彼は両親の食堂を手伝いながら、本屋さんで(台湾に図書館が無いとは思わないけど)フランス語の教則本を毎日立ち読みしてフランス語会話を勉強しています。
その本屋さんで働いているスージーが何かとカイに心をよせます。そのスージーのピュアで可愛いことといったら。でも去られた恋人のことしか頭にないカイにはそれが見えてないよう。
同じ台北の下町の空の下、コンビニで働いていて同僚を好きなのに告白もできない心やさしいカオ(カイの親友)、何をしても「なんちゃって」がついちゃうような底抜け小悪党たち、年甲斐も無く(失礼!)恋に落ちてうっとりしている不動産屋の親父さん、やたらマッチョぶってる勘違い刑事とその恋人の話が並行して描かれていきます。
…ここまで読んで『エドワード・ヤンの恋愛時代』を思い出したあなたは映画通です。
いくつもの人々の話を重ねあわせて、それがだんだん絡まっていく。脚本の構成力をベースに台北の町を、そしてそこに生きる人々のパワーをいとおしく思い、少し苦笑しながら描く。
登場人物の設定が師匠のと違って市井の人々なので、より一層躍動感を強く感じました。
「台湾の朝」と題名にありますが、ほぼナイトシーンだけという印象。
そしてこの映画のすばらしいところは見終わったあとはたった一晩の話だったように錯覚するところ。
それぞれの人物たちを観客にある程度認知させるために何日かを描いたはずなのに、一晩に集約できているというのは「映画の時間」、つまりいま目の前で起きていることとして全て現在形であることを貫いていることが成功した証だからです。
それからここで撮られている台北の町がとても魅力的。
スタイリッシュに撮っているわけではないのにどこか外から来たひとの視線で描かれているから、多分地元のひとからは「へぇ、私たちの町が映画になるとこんなふうなんだ」という発見と驚きがあったはず。それはこのアーヴィン・チェン監督がカリフォルニアで生まれ育ったということと無関係ではないでしょう。
いろいろ複雑に絡み合って一瞬先が見えなくなったけど、ようやく夜が明けてきて “Tomorrow is another day” ではないけれど、新しい一日の始まりに自分も生まれ変わるような気分になれます。

3月公開の『台北の朝、僕は恋をする』という映画を見てきました。
この映画はエドワード・ヤン監督の弟子とされるアメリカ育ちの台湾人、アーヴィン・チェン監督の長編第一作です。

そして大好きな『ベルリン天使の詩』(1987)の監督、ヴィム・ヴェンダースが自ら「ドイツからの守護天使」と手を挙げて(やさしい彼らしい)製作総指揮を努めたそうです。エドワード・ヤン監督の作品はいつも楽しみにしていたのに『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)以来、作品が発表されないまま2007年に癌で亡くなったと聞いたときにはほんとうにショックを受けました。
その闘病中に傍にいて未完となったアニメーション作品『追風』の脚本の執筆を手伝っていたのがこのアーヴィン・チェン監督だそうです。

とても期待して試写室に向かいました。

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“Liberté, Egalité, Fraternité”(自由、平等、博愛)。
いうまでもなく、フランスの国としての標語です。
フランス革命のときに掲げられたものだと習いましたし、国旗トリコロールの青・白・赤もこれを表しています。
ところが、フランスはいつからそうではなくなってしまったのでしょうか。

昨年試写で見た『君を想って海をゆく』(監督 フィリップ・りオレ)を見て深刻な思いに捕われました。

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ご無沙汰してしまいました。
秋以降、試写室や映画館、
そして映画祭でさまざまな映画と出会ったのに。
また折にふれてそれらについても書いていきます。

 

さて、新しい年を迎えて一本目はブラジル映画『名前のない少年、脚のない少女』でした。
まず思ったのはよくぞこの映画を買ってくれましたということ。

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12月 20

羽田野直子です。瀬戸内の旅。

Posted by kakusigoto-ya02 in エッセイ

この秋は、かなり集中的に旅をしました。
まず、10月末に、瀬戸内国際芸術祭。
高松市内の港の近くに宿を取り丸二日間、瀬戸内の島々(直島、犬島、豊島など)に点在するアート作品をできうる限り見てまわりました。

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9月 28

羽田野直子です。恋について!

Posted by kakusigoto-ya02 in エッセイ

恋は生きていくためのエネルギーになりますが、ときにひとを絶望の淵に追いやる凶暴さも秘めていて、それはある意味甘美な罠ともいえるでしょう。
「運命の恋」とか「永遠の恋」といわれる恋。
それはひとが一生のうちに何度かおちるほかの恋とどう違うのでしょうね。
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谷川俊太郎さんの『生きる』という詩をご存知ですか?

 

生きているということ 
いま生きているということ 
それはのどがかわくということ 
木漏れ日がまぶしいということ 
ふっと或るメロディを思い出すということ 
くしゃみをするということ
あなたと手をつなぐということ
…………(以下略)……

 ある映画を観たあと身体がゆらゆらして平衡が保てなかった私はやっとの思いでカフェにたどり着き、ソファに身を沈めたら頭の中でこの詩の一節が音楽のように繰り返されていました。

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