小津安二郎(60歳で没)、ダニエル・シュミット(64歳で没)、相米慎二(53歳で没)、マノエル・デ・オリヴェイラ(101歳)、ジャン=リュック・ゴダール(79歳)、テオ・アンゲロプロス(75歳)、ビクトル・エリセ(70歳)…私の好きな映画監督たちです。

 

相米さんの訃報を聞いた時は目の前が真っ暗になりました。
お葬式に出ていても実感がわかず、まるで自分がお芝居させられていて、相米さんがあの独特の、ひとの心を見透かすような目でどこからか見ているんじゃないかと感じながら、そうならいいのにと願っている不思議な感覚でした。

 

そうして、新作を楽しみにしている映画監督たちが高齢になってきています。
小津安二郎と同世代なのに、百歳を超えてなおまだ現役の映画監督として新作を撮り続けているオリヴェイラ監督(いま最新作『コロンブスの海』が公開中)は超人的かつ例外的ですが、他の人たちはあと何本新作を撮ってくれるのでしょうか。

 

時々、映画好きの友人と「もしゴダールがいなくなったらどうしよう?」と相米さんと違ってお会いしたこともないくせに、ほんとうに恐怖に震えそうになりながら言い合います。

 

新作が公開される!と聞いたら首を長くしてその日を待ち、何が何でも映画館に駆けつけるという映画監督が皆さんご高齢で、しかもなかなか日本で公開されない状況なのです。

 

そんななか、出会ったのがまだ比較的に若いポルトガルのペドロ・コスタ(50歳)でした。
京橋の今ではなくなってしまった片倉ビルという古くて大好きだったビルの映画美学校の試写室で『コロッサルユース』という映画を見たときの驚きと言ったら…。
ヴェントゥーラという黒人系の老人がリスボンの廃墟のような古い街と新しい集合住宅を、そして過去と現在を行ったり来たりする。
ただそれだけの映画なのに、いままで意識していなかった感覚が一気に目覚めたようにざわざわし始めて、その美しい映像に強度のある音に目も耳も釘付けになってしまったのです。

 

そうしてもうひとり、諏訪敦彦(のぶひろ、49歳)。
信頼している人たちから「いいよぉ」とずっと聞かされていながら、でもなかなか作品を見ることが出来ずにいた監督です。
私はこの人!といわれている監督の映画は絶対スクリーンで見るという原則を決めていて、これまで諏訪さんのはなぜか見そびれていたのでした。(先日とうとう『ユキとニナ』を見ましたからまた別の機会に)

 

このふたりの対談(映画美学校での『世界のドキュメンタリー講座』)はほんとうに素晴らしかった。
ふたりの間にとても深い信頼関係があって。
会場からの「何故あなたの映像はあんなに美しいのでしょうか」という問いにシャイなコスタは「ありがとう」と照れながらうれしそうに言ったきり黙ってしまった。
そこで諏訪さんが代わりに答えた言葉「ペドロの映像が美しいのはcameraとペドロがそこにいて、撮影している対象と或る関係性を結ぶこと—ともに探求することを指向する—によって美しいshotが生まれる。それは単に美意識がすぐれているということだけでは説明できない」

 

これは非常に抽象的でありながら映画の本質を見事に表しています。
映画はいま目の前でまさにおこなわれていることとして我々の目に映るものです。
このことを意識していない、作りものがかった映画の監督は極言すると俳優も観客も信じていません。
うわべだけの「ほんとうらしさ」をいかにでっちあげるかに力を注ぎ、俳優や観客の想像力の範囲を恐ろしく狭めてしまっているのです。

 

コスタはさらに「あなたの映画は物語性を排除していますね」との問いに答えて「histoire(物語)の排除、私にはそのつもりはない。むしろ起こりうるあらゆる物語の可能性を生かして、観客に想像して欲しいからひとつに絞り込まないだけ。」と言いました。

そのコスタの新作『何も変えてはならない』
いくら言葉で説明しようとしても伝わらないことを表現するのが映画です。
まずは映画館でコスタを見て聴いて、感じてください。