7月31日、イタリア人の脚本家、スーゾ・チェッキ・ダミーコさんが亡くなったという訃報を新聞で知った。
巨匠ルキノ・ヴィスコンティの作品の脚本を手がけたベストパートナーとして知られ、イタリア・チネチッタの女王と称えられた脚本家だった。
享年96。その訃報に際し、すぐにジョルジオ・ナポリターノ大統領が哀悼の意を表し「イタリア映画史最盛期の偉大な主役であった」と彼女の業績を称えた。
Repubblica紙のサイトでも、「シナリオライターの女王」と記している。
彼女が脚本家として優れた人物であったことも当然ながら、イタリアという国の映画に対する認識の高さ、脚本家の地位の高さをあらためて、噛みしめた。

イタリアではこれほど偉大であり、ヴィスコンティを始め、数々の巨匠とタッグを組んだ名脚本家であるのに、日本語で検索してもあまり詳しい資料が出てこない。
ヴィスコンティとの最初の作品は1951年のBellissima(ベリッシマ)。
Il gattopardo(山猫)は1963年、Ludwig(ルートヴィヒ)は1972年、
Gruppo di famiglia in un interno(家族の肖像)は1974年。 

 

さて、サイト上に日本語で表れる記事には1948年、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「Ladri di biciclette(自転車泥棒)の制作にも関わった」という文言が多く表れている。
制作にも関わったってどういうことなのか?
Repubblica紙のサイトを見る限り、彼女の代表作として、「山猫」と並んで「自転車泥棒」も並んでいる。
自転車泥棒の方は、調べてみると、チェーザレ・ザヴァッティーニと共同脚本になっている。
自転車泥棒の頃は、スーゾ・チェッキ・ダミーコはまだデビュー2年目だったし、ザヴァッティーニは彼女より大先輩。
まして日本ではデ・シーカ監督の脚本家というとザヴァッティーニの印象が強く、自転車泥棒の脚本家=スーゾ・チェッキ・ダミーコということに違和感を感じる空気を読んで記者がそう表現したのかもしれない。
(短い記事だと、自転車~の脚本はザヴァッティーニなのに間違いじゃない? っていう問い合わせを避けるためかもしれないが・・・?)
だが、そんな変な気の廻し方は要らない。脚本家としてクレジットされているのだから、「制作に関わった」ではない。

 

ともあれ、スーゾ・チェッキ・ダミーコの代表作はまだまだいくつもある。
Repubblica紙が上げた代表作は、「山猫」「自転車泥棒」の他に、
1951年Miracolo a Milano(ミラノの奇蹟) 監督:デ・シーカ、原作:ザヴァッティーニ、共同脚本:ザヴァッティーニ 他
1958年 I soliti ignoti(いつもの見知らぬ男たち) 監督:マリオ・モニチェリ
1986年Speriamo che sia femmina(女たちのテーブル) 監督:マリオ・モニチェリ 

 

私が好きな作品は、1987年のOci ciornie(黒い瞳)。これはニキータ・ミハルコフ監督の作品。
この頃のマストエロヤンニが、えらく色っぽくて好きなので見ていたが、脚本が、スーゾ・チェッキ・ダミーコであると意識して見てはいなかった。
23年前の作品だから、脚本はもっと前に書かれていたにしても、シナリオの女王は70歳前後でこの大作を書いているはずだ。
大いに励みになる!

 

スーゾ・チェッキ・ダミーコは、文芸評論で知られた作家エミリオ・チェッキを父に、画家のレオネッタ・ピエラッチーニを母に、芸術家一家に生まれ育った。父親は英語仏語に精通し、彼女も父を手伝って最初は翻訳の仕事を手がけ始める。
そして、1939年に結婚した相手は、フェデーレ・ダミーコ。音楽学者で音楽評論家。3人の子宝に恵まれた。
D’Amicoという姓から貴族的な家柄を推測させるが、第二次世界大戦中、フェデーレは反ファシズムの立場で、ジャーナリズムで体制に抗う活動をしていた。
夫は肺を患って、戦後も暫くスイスで静養している。
3人の子どもの良き母でありながら、戦後の厳しくも混沌とした時代をしなやかに生きるために、彼女は芸術の世界で知的な労働において自立を目指したのであった。
スーゾ・チェッキ・ダミーコの仕事上のパートナーであったヴィスコンティ監督も、名門貴族の出身ながら、左翼運動に身を投じた。
そうした経歴を頭に入れて、もう一度映画を見てみてみようと思う。
彼女がシナリオに吹き込んだ台詞の中に、彼女が、そして彼女と同じ時代を分かち合って生きた人たちの、おのおの歴史の証言が刻まれているはずだから。