谷川俊太郎さんの『生きる』という詩をご存知ですか?

 

生きているということ 
いま生きているということ 
それはのどがかわくということ 
木漏れ日がまぶしいということ 
ふっと或るメロディを思い出すということ 
くしゃみをするということ
あなたと手をつなぐということ
…………(以下略)……

 ある映画を観たあと身体がゆらゆらして平衡が保てなかった私はやっとの思いでカフェにたどり着き、ソファに身を沈めたら頭の中でこの詩の一節が音楽のように繰り返されていました。

 

その映画とはジャン・ユンカーマン監督のドキュメンタリー映画『老人と海』です。
同名の世界的に有名なヘミングウェイの小説の舞台となったキューバのハバナ港とほぼ同緯度にある与那国島でサバニという小さな舟でカジキ(百キロ以上もある大きな魚)を一本釣りしている八十二歳の海人(うみんちゅ)、糸数繁さんを約二年がかりで追いかけた、二十年前に公開されたドキュメンタリー映画です。

 

ときにはカメラが糸数さんの小舟に乗っての撮影もあり、与那国周辺の海流がいかに激しいのか体感できました。
だからこそ、試写室の外に出てもゆらゆらしていたのです。

 

カメラは糸数さんがなかなか大物に出会えない日々の漁の様子とともに、奥さんとの昔ながらの質素な暮らしぶり、島のほかの漁師さんたちとの助け合い、島のお祭りを淡々と捉えていきます。
ナレーションは一切なし、小室等さん作曲の音楽は坂田明さんのサックスのかわいた音によって与那国の混じりけのない青と見事に溶け合っていました。

 

糸数さんの海との苦闘はようやく百七十キロのカジキを釣りあげるところでラストを迎えます。
でもそのラストへ向かうカジキとの格闘の長いこと長いこと。冷静に考えてみれば当たり前です。
八十歳を過ぎた老人が二百キロ近い大魚の、死にものぐるいの抵抗にあうわけですから。
小さな舟の上、ときどき海に引きずり込まれそうになりながらカジキをだんだん引き寄せていく糸数さん。
見ているこちらも相当力が入って、頭がゆらゆら…。
気分がおかしくなって来た頃、ようやくカジキに銛をうちます。
それでもカジキはまたのたうちまわって最後の抵抗をします。
やっとおとなしくなったカジキとともに舟が港に着くと大喝采が待っていましたが、当のご本人も見ているこちらももうヘトヘトにくたびれています。でも背筋のぴんと伸びた淡々としたその姿、そして小さく頷きながら無言で迎える奥さん。
ふたりの間の空気が何とも素晴らしい。

 

この映画には後日談があります。
糸数さんはこの映画が東京で公開される前に海で亡くなったというのです。
海に浮いていた糸数さんの指には先に大きな魚がつながったままの糸がしっかり絡まっていたそうです。

 

カフェのソファに小一時間。
ゆらゆらがかすかに残った頭ではちゃんとものが考えられる気がしませんでしたが、何かがどすんと心に響いていました。
観ることによって言葉に出来ない何かを伝えるということ、「映画」という形がそこにははっきりとありました。