地震によって引き起こされた原発事故がきっかけとなってこれからのエネルギーをどうするかという議論が日本のみならず全世界で活発になっています。
「二酸化炭素を排出しない」とか「安い」とか原子力発電を推進するためにさまざまなアドヴァンテージがあるように言われてきましたが、今回の事故によって我が国のような地震国において原発の安全は実は「砂上の楼閣」や「まやかし」であったと証明されてしまったからです。

そんな今、秋に公開する予定だった『100,000年後の安全』というドキュメンタリー映画が緊急公開されました。

時局に鑑みて、連日大勢の方たちがこの映画を見に駆けつけて上映する劇場もどんどん増えているそうです。
私も見てきました。

フィンランドでは原子力発電所から出た放射性廃棄物を棄てる「オンカロ」(隠れた場所という意味)という広大な施設をオルキルトという島の地下500mに建設中です。
ロケットに載せて宇宙空間へ飛ばすのは爆発事故が起きた時のことを考えて、また海底に沈めておくのは地殻変動が起きた時のことを考えて、結局この岩盤でできた島の地底深くに埋めるしかないとの判断でこのプロジェクトは始まりました。
その現場にカメラが入ったのです。
白い闇が画面いっぱいに広がっています。
目を凝らしても何も見えません。
やがてカメラはゆっくり、ほんとうにゆっくりと地下施設への入り口へと動き始めます。

この映画のマイケル・マドセン監督はコンセプチュアル・アーティストでもありますから、フィンランドの森や原子力発電所、そしてオンカロの工事現場を捉えたひとつひとつのショットが静かであると同時にとても尖鋭的です。
その合間に関係者たちへのインタビューが挿入されます。

このオンカロという施設が完成するのは100年後。
そして、オンカロは放射性廃棄物の半減期を考えて、100,000年という気が遠くなるような年月に耐えうる施設でなければならないのです。
代わる代わる出て来る関係者たちが語るのは放射線物質がいかに危険であるかです。
でもそれ以上に真剣に議論されるのはオンカロを如何に未来の人類に伝えていくかということなのです。

この先訪れるかもしれない氷河期を経た人類(そう呼べるものなのか?)にこの施設の封を開けることがいかに危険であるかをどう伝えるのか。
言語そのものも変わってしまうだろうから画や記号で伝える努力をした方がいいのか。
否、エジプトのピラミッドのように神秘的な魅力を放ち、暴かれないためにむしろだんだん忘れ去られるほうへ導いた方が良いのか…。こうした議論を国民に全て情報公開しているフィンランドの政府と国民の成熟度に驚きました。

我々は今世紀に入って「サスティナビリティー(持続可能なこと)」という言葉をよく使いますが、この映画を見たあとでは、その言葉が持つ重さを如何に我々が軽く考えていたかという思いが強くなりました。
今そこにある危機としての福島、そして柏崎、活断層の真上に位置する浜岡など我が国はこのように国土が狭いのにも拘らずアメリカ、フランスに続いて世界第3位の原子炉保有国です。
地震という予知不能な負のファクターを持った我が国が原子炉を持ち続けることの危険性、廃棄物の最終処理をどうするかというヴィジョンのない場当たり的な原発推進をこれ以上どうすべきなのでしょうか?
我々は今後の暮らし方全てについてひとつひとつ検証していき、どういうエネルギーを選択するのかをそれこそ長いタイムスパンで考えなくてはならない局面に突き当たっているのです。

この映画の冒頭とラストを覆う白い闇。
それは予知不可能な未来なのかもしれません。
そこに目を凝らして、全感覚を開いて我々の遠い未来を本気で考えなくてはと思いました。