ここ数年、教えに行っている映画学校の新学期が始まりました。
以前行っていた大学の映画学科でもそうでしたが、何年か続けていくとあらゆる意味での学生の力というものに、学年ごとで波があるとわかってきます。
2年生には映画概論の講義、3年生には脚本ゼミをというスタイルでやっていますが、今年の3年生がちっとも教室に来ないのです。

それは彼らが2年生のときからそうでした。
いまの学校に来るようになって初めての経験だったので、ちょっと驚いて他の先生方に伺ってみたらやはり同じように出席率が著しく低いというお話でした。
つまり学校に来ていないということなのです。
結局、3月の学年末の採点で、出席が足りず「採点未満」だったひとがやたら多くて7割強の学生を落第にしました。

これまでの学年に数名いた出席の足りない学生はなぜ出席できないかという理由がわかっていました。
友達の撮影に応援で参加してやむなく休むということをちゃんと伝えてきていたからです。
追加のレポートを出してもらって、下駄を履かせて単位をあげていました。

学究を育てる場、なら机についている時間を大切にしなくてはならないかもしれませんが、映画という生き物に監督や制作者として関わるプロを目指している子たち相手に杓子定規に出席だけを強要するのは愚の骨頂だと思うからです。

でも今年の3年生は映画を作っているひとも少ないようなのですから毎日一体何をして過ごしているのでしょうか。 
今週も3年生の教室へ行くとひとりだけ…。
その子は脚本家志望。
脚本のコースがある映画学校は調べてみるとあまりなくてここにはあったから来たのだとちゃんとモティベーションを持った子です。
彼も最初は「みんなゆとり世代なんですかね」と言って余裕を見せていましたが、最近はさすがにちょっと元気がないように感じていました。
同世代の競い合ったり励まし合う相手がいないことは彼にとってあまりいいこととはいえません。

私は用意してあったいままでで一番の当たり年だった学年が2年生だったときの映画を見たレポートの優秀作品集を渡しました。
そこに載っているのは最近の大学生のレポートにありがちな、ネットでコピペしたものではない、彼らが生で感じたことを何とか自分らしい表現で表わそうという格闘のあとが見られてしかもなかなか面白い力作ばかりです。

彼の顔が次第に明るくなってきました。
「なんか頑張らなくっちゃって思えてきました」
その言葉を聞けて私もうれしかった。

ものを作るというのは本来孤独な作業です。
到達点、或いは完成度は自分にもわかりませんし、常に「もっと先へ」と志向していくものだからです。
でも元気がよくて互いを励まし合い、切磋琢磨する学年の子たちはしあわせです。
同じきびしさを知った者同志、それを共有してくれる仲間がいることで階段の踊り場のようなホッとした温かさにひととき触れられるだけで、自分がぶつかっている壁を乗り越える勇気や力を溜めて再チャレンジする後押しになると思うから。

 

そして仕事の現場で苦境に立たされたとき、どちらへ進むか迷ったとき「あいつに恥ずかしくない自分」というものさしになってくれる「あいつ」に出会える場として学校ほど大切なところはないのです。

代わりにいまの2年生は個性的な学生ぞろいで教室にいるだけでわくわくしてきます。
質問も鋭いから準備している講義のノートが改訂され、充実してきています。

才能の原石である学生が自らを大切に、そして時には荒々しく削るお手伝いをしているつもりがこちらも刺激を受けているという恩恵に浴しているのだと書いていて気がつきました。

私も頑張らなくては。