久しぶりにこってりしたイタリア映画を見ました。
マルコ・ベロッキオ監督の『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』です。

この映画の主人公、イーダ・ダルセルはまだ無名に近かったムッソリーニに彼が官憲に追われているところで出会います。
彼らの目をくらますためにムッソリーニと抱き合い、口づけを交わしてたちまち恋に落ちます。
彼の政治活動のために私財を全て投げ出して彼の活動を支えていく中、やがて彼の子(ベニート・アルビノ)を生んで認知してもらいます。

しかし彼には妻がいました。
政権をとり権力の核となった彼にとって、愛人と婚外子の存在は邪魔になります。
しかしそれを受け入れてひっそりと身を隠したりせず、むしろ存在を主張するイーダをムッソリーニや取り巻きたちは拒絶するばかりか、歴史から抹殺するために精神病院に送り息子とも引き離します。
それでも諦めようとはしないイーダ。
彼女は全体主義が個人を呑み込んでいく、その犠牲の象徴でもあるのです。

マルコ・ベロッキオ監督はニュース映像も交えながら、イタリアの狂気に満ちた時代の人びとの熱気を画家が絵の具をペインティングナイフでキャンバスに叩き付けるかのようにぐいぐい描いていきます。
久しぶりに映画が放つパワー、その圧倒的な迫力に心地よく酔いしれました。

でも…
邦題に書かれた「愛の勝利」って何でしょうか。
彼女にとってムッソリーニは神にも等しい存在だったのだと思います。

冒頭、聴衆を前に「私はいま神に私を殺す時間を5分与える」と言ってムッソリーニは腕時計を机に投げ出します。
そして5分後、「ほら、神などいないのだ」と腕時計を再び腕につけながら不敵な笑みを浮かべて自分の存在を誇示します。
普通に考えるとペテン師のような、その彼を誇らしく、いとおしく見凝める彼女がいます。
その神とも崇めるムッソリーニに自分の存在を邪魔だと思われても、そのことが過ちであるとムッソリーニに気づかせようと必死に訴え続けるイーダ。
そしてそのことでさらなる苦境に陥ってもなお、自らの存在を主張し続けるイーダ。
その姿はまるで殉教者のようです。
小利口な(或いはずる賢い?)ひとならば適当な手切れ金を受け取って、ひっそりと息子とのそれなりに穏やかな生活を送るでしょう。
時勢に抗ってまで自己が信じる道を突き進むことを殉教と言わずして…。
あの時代のイタリアの全体主義の大波に逆らうことがいかに大変であるか、そのことは想像に難くありません。

殉教が勝利というのは悲しい話です。
でも例えば封建制の厳しかった江戸時代の「愛の勝利」が心中であったことを思えばイーダにとっての「愛の勝利」が殉教だというのは理解できなくもありません。

この映画で面白いと思ったのは、イーダに会わなくなって権力の核と化したムッソリーニが彫像や実際のニュース映像でしか現れてこないところです。
彼はもはや人間性というものとは無縁の彼方へ行ってしまったのだと痛烈に思い知らされます。
代わりに成人したイーダの息子として同じ俳優が出てきますが、彼は「愛の勝利」におけるイーダの殉教の犠牲者として容赦なく引き裂かれていきます。
彼のその姿を見るとまたイーダの「愛の勝利」とは…と再び重く考え込まざるを得なくなるのでした。