「もう幾つ寝るとお正月…」という歌の時期になりました。
でも今年は年の暮れになってショックなことが起こり、それどころではありません。
30年近くもお世話になってきた師匠の市川森一先生が、
12月10日にお亡くなりになったのです。

11月の半ば過ぎにお電話で元気なお声でしたから信じられず、悪い夢を見ているようでした。
12月20、21日の青山葬儀所でのお通夜と告別式を立派にと頑張っていたその目標をたくさんの方たちのお蔭で果たせたあと、いまは虚ろな心でいます。
身近な友人の「市川先生のことを思い出したり、また直接先生のことに触れなくとも私が何かを形にすることで先生はそこに生きるのだ」という言葉に随分励まされました。
生前先生は死んだひとは残されたひとが思い出してあげれば、そのひとの中で生きられるとおっしゃっていました。
そういえば14日頃だったか、お通夜と告別式で配るためのリーフレットに載せる市川先生のプロフィールを頼まれて書いたら、ほんの少し心が落ち着きました。
今日はそれをここに載せます(リーフレットは縦書きでしたから横書きにし、漢数字をアラビア数字に直して)。

年が明けて元気を取り戻したらまたいろいろ書きます。
皆さん、良いお年を。

市川森一 (いちかわ しんいち)
1941年4月17日、長崎県諫早市に生まれる。
日本大学芸術学部卒業後、1966年『怪獣ブースカ』第4話「ブースカ月へ行く」で脚本家としてデビュー。
それ以降円谷プロのウルトラマン・シリーズや『コメットさん』などの子ども向け番組を多数手掛け、所謂英雄礼賛とは異なったドラマツルギーが現在も若い人びとに支持されている。
その後大人向けのドラマも執筆し始め、1969年に執筆した『マキちゃん日記』に出演していた美保子夫人(芸名 柴田美保子)と出会い
、結婚。
1974年、社会現象にもなった『傷だらけの天使』で広くその名を知られるようになる。
1978年には37歳の若さで大河ドラマ『黄金の日日』を執筆。
その戯曲で大谷竹次郎賞受賞。
1982年『淋しいのはお前だけじゃない』で既成のドラマとは異質の虚実入り交じった独特の世界観を描き、第一回向田邦子賞を受賞。
それ以降も「夢」「聖と俗」「原罪」「メメント・モリ(死を忘れるな)」などをテーマに「東芝日曜劇場」、人気シリーズ「モモコ」やたくさんの連続ドラマ、特別番組の脚本を執筆し、舞台、映画にも活動のフィールドを拡げた。
1980年芸術選奨新人賞(『港町純情シネマ』)、
1988年芸術選奨文部大臣賞(『明日1945年8月8日』『もどり橋』『伝言』)、
1999年、モンテカルロ・テレビ祭最優秀脚本賞(『幽婚』)など国内に留まらず海外でも数々の賞を受賞。
また大河ドラマ『山河燃ゆ』『花の乱』などの歴史ドラマ執筆の際には膨大な資料を集め、詳細な調査研究を厭わなかった。
自身の出身地である長崎への深い郷土愛から、天正の少年使節、天草の乱、江戸時代後期の長崎の歴史的役割などに造詣が深く、そのことが小説『蝶々さん』『幻日』の執筆につながる。
旺盛な執筆活動の一方で脚本家という職能の社会的認知の向上を意図しテレビにも多く出演。
また日本放送作家協会理事長(現会長)を長くつとめ、文科省中教審や文化庁国民文化祭などの委員、そして故郷でも長崎歴史文化博物館名誉館長等を歴任した。
2003年紫綬褒章、2011年旭日小綬章受章。その直後、2011年12月10日朝、肺癌のため永眠。
享年70歳。
奇しくもその夜は皆既月蝕だった。