Archive for the ‘エッセイ’ Category

“Liberté, Egalité, Fraternité”(自由、平等、博愛)。
いうまでもなく、フランスの国としての標語です。
フランス革命のときに掲げられたものだと習いましたし、国旗トリコロールの青・白・赤もこれを表しています。
ところが、フランスはいつからそうではなくなってしまったのでしょうか。

昨年試写で見た『君を想って海をゆく』(監督 フィリップ・りオレ)を見て深刻な思いに捕われました。

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ご無沙汰してしまいました。
秋以降、試写室や映画館、
そして映画祭でさまざまな映画と出会ったのに。
また折にふれてそれらについても書いていきます。

 

さて、新しい年を迎えて一本目はブラジル映画『名前のない少年、脚のない少女』でした。
まず思ったのはよくぞこの映画を買ってくれましたということ。

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12月 20

羽田野直子です。瀬戸内の旅。

Posted by kakusigoto-ya02 in エッセイ

この秋は、かなり集中的に旅をしました。
まず、10月末に、瀬戸内国際芸術祭。
高松市内の港の近くに宿を取り丸二日間、瀬戸内の島々(直島、犬島、豊島など)に点在するアート作品をできうる限り見てまわりました。

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9月 28

羽田野直子です。恋について!

Posted by kakusigoto-ya02 in エッセイ

恋は生きていくためのエネルギーになりますが、ときにひとを絶望の淵に追いやる凶暴さも秘めていて、それはある意味甘美な罠ともいえるでしょう。
「運命の恋」とか「永遠の恋」といわれる恋。
それはひとが一生のうちに何度かおちるほかの恋とどう違うのでしょうね。
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谷川俊太郎さんの『生きる』という詩をご存知ですか?

 

生きているということ 
いま生きているということ 
それはのどがかわくということ 
木漏れ日がまぶしいということ 
ふっと或るメロディを思い出すということ 
くしゃみをするということ
あなたと手をつなぐということ
…………(以下略)……

 ある映画を観たあと身体がゆらゆらして平衡が保てなかった私はやっとの思いでカフェにたどり着き、ソファに身を沈めたら頭の中でこの詩の一節が音楽のように繰り返されていました。

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今年の1月からtwitterなるものを始めた。
始めのうちは何が面白いのか?な感じだったが、そのうち暫くご無沙汰していた人と繋がって、またそのお知り合いと、相互フォローの関係になって、何か新しいコミュニティーが育まれていく感が楽しくなってきた。
だいたい生まれてこのかた、日記は三日坊主、手帳にスケジュールを書き込むのも乱雑・・・そんな私が(つぶやかなかった日もあるが)ともかく8ヶ月続けてきたから、すごいもんだ。

 
気軽につぶやいているが、途中からTwilogというサービスと同期させたので、そっちを見るとつぶやきのログがたまって、あたかもブログの体になってきた。これも便利だ。
Twilogをやるようになって、twitterが一種、備忘録になりつつある。

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「光陰矢の如し」といいますが、もう8月です。
少し前の深夜、サッカー・ワールドカップ・南アフリカ大会の総集編の再放送を見ました。
今更ながら、日本代表の活躍に胸を躍らせたひと月前のことが蘇ってきてわくわくしました。
個人主義の尊重が裏目に出てぼろぼろだったフランスと逆で、集団としてまとまる中で、同時に個をそれぞれうまく活かすことに成功した日本は「サムライ」という神秘的な呼び名で旋風を巻き起こしたようです。
今回の大会を通してわかったのはサッカーのコアなファンではない私のようなものが知らないところで多くの日本人選手が海外で頑張っていたということでした。

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7月31日、イタリア人の脚本家、スーゾ・チェッキ・ダミーコさんが亡くなったという訃報を新聞で知った。
巨匠ルキノ・ヴィスコンティの作品の脚本を手がけたベストパートナーとして知られ、イタリア・チネチッタの女王と称えられた脚本家だった。
享年96。その訃報に際し、すぐにジョルジオ・ナポリターノ大統領が哀悼の意を表し「イタリア映画史最盛期の偉大な主役であった」と彼女の業績を称えた。
Repubblica紙のサイトでも、「シナリオライターの女王」と記している。
彼女が脚本家として優れた人物であったことも当然ながら、イタリアという国の映画に対する認識の高さ、脚本家の地位の高さをあらためて、噛みしめた。

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最近、ある本の企画に関わっています。

 

友人と集まってああでもないこうでもないとブレストをしていて出てくるテーマの根底に流れているのが「知は廃れた」です。
学生といわれるひとたちの読書離れの激しいことといったら…。
大学で教えている友人たちの嘆きは半端ではありませんし、新聞社の友人たちからは学芸部や文化部をめざして来た記者のたまごが漱石も読んでいないとか、生原稿を読めない(中には判読が難しい悪筆もあるでしょうけれど)とか、にわかには信じがたい話を聞きます。

 

いったいどうなってしまったのでしょうか?

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最近相次いでやきものの展覧会に足を運びました。

最初がメゾンエルメスでの細川護煕さんの「市井の山居」
志野、唐津、天目、粉引、井戸、赤楽…おおよそ知っている限りの、否知らないのまで、ありとあらゆる技法をわずか十年でものにして、どれも渋く仕上がっているのに驚きました。
日本橋のあの壺中居で展覧会が開けたのだから、その完成度は折り紙つきなのでしょう。

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